パクりパクられ生きるのさ

http://d.hatena.ne.jp/sexualrocker/20050427#p1 (水色レコード)
http://d.hatena.ne.jp/headofgarcia/20050420#p2 (やさぐれ日記暫定版)
http://tsu-ka.seesaa.net/article/3194088.html (TSUKASAの巣)


この手の問題についての線引きは個々人の感覚によるもので、明快な結論は多分無いのだと思う(敬意=hommageの有無による、と言う意見は確かに納得が行くけれども、その敬意の有無を判断するのも結局聴き手の個人的な感覚だろうし、大体それだと定義付けが循環になってしまう)。ただ、パクリだと思われやすいケース、オマージュだと思われやすいケースと言うのはそれぞれあって、それはどのような聴衆を想定して引用を行っているかによって異なるのだと思う。つまり、聴き手が元ネタが解る事を前提して引用がなされていればそれはオマージュと呼ばれやすいだろうし、一方で元ネタが解らなさそうな人たちを想定してやっているのならばパクリと認識される事が多くなる。オレンジレンジやB'zがパクリパクリ言われるのは、元ネタを聴き手が知らないだろうと踏んでやっている、ような印象を受けるからなんじゃなかろうか、と思うわけです。元ネタを知らない人に聴かせているので引用元が参照される機会が少ない→リスナーと元ネタ双方に対する敬意が欠けている→パクリだ、と言うような図式がある気がする。
オマージュの方はどうかと言うと、批評性があるとされるものがオマージュと呼ばれやすい。ただ元ネタを引っ張って貼り付けるだけでなく、それを材料として新しい何がしかを生み出すと同時に元ネタの新たな解釈を提示する……そのためには引用元に対する深い理解と敬意が必要不可欠なので、それが達成されている引用は批評でありオマージュであってパクリとは呼ばない、と言う主張になるのだと思う。
ただ、その引用が真っ当なオマージュになっていると判断するためには、当然だが聴き手が元ネタも知っていなければならない。渋谷系とくくられる音楽やヒップホップでは(実はメタルもこういう点では似たところがある)、ある程度以上聴き手が元ネタを知っている事を前提してモノを作っているわけで、そこには「このくらいの元ネタは知ってるよね。元ネタと照らし合わせれば、これが新しい解釈によって独自の批評性を獲得しているのも解りますね?」と言うような作り手の意識と、元ネタを理解しているから自分はこの作品をより楽しめると言うリスナーの優越感みたいなものが多分あって、聴き手と作り手の間に出来る閉じた共犯意識が「スノッブ」と言う風に感じられるのではないか、と思う。そう言ったスノッブ臭がするものは、あからさまな剽窃とはまた別の意味で、聴いていてあまり良い気がしない(それに、そういった共犯意識が過ぎると、モノが面白くならない事が多い。予備知識や事後の説明を必要とするようなものはポップとは呼べない)。
ちょっと話がずれたが、パクリかオマージュかは主に想定されている聴き手がどれだけ元ネタを知っていそうか、と言うところで分かれる、と言うのが自分の認識なのでありました。水色レコードさんが触れられているフタコイの件は、フリッパーズ知らない人に向けてやっているように見えるからパクリだと糾弾を受けるているんだろうし、逆のパターンで考えれば、例えば車谷浩司が「鳥の詩」を引用して何か作ったらやはりパクリだと指弾されるだろう。パクるならパクるでちゃんとツッコミ入れられる人が沢山いるような状況でやっておかないと「これはオリジナルですよと言いたいのですかあなたは」と非難されやすいし、逆に「元ネタを上手く料理しているから褒めて」と言うのが見え見えだとそれはそれでちょっと薄気味悪い。と言う事なのではないかと思う。



全くの余談になるが、オレンジレンジをどうしても攻撃したい人は、まずSOUL'd OUTを聴いて理論武装したりすると良いと思います。「ロコローション」からこっち、街を歩いていて自然に聴こえてくるシングル曲の中であの曲にキャッチーさで勝っていると俺が感じたのはSOUL'd OUTの「To All Tha Dreamers」だけだったし、似たような方向性を持ちながらオレンジレンジよりもスマートで、それなのにひたすらベタベタな泣きと解りやすさを追求しているので。