地震の話のようでそうでもない

日曜日に起きた福岡西方沖地震。俺の住んでいる地域の震度は5、と言う事だった。
築30年以上になる家の二階と言う事もあって俺の部屋は相当に揺れ、棚に置いてあった瓶が床に落ちて割れたり、CDや本がブチ撒けられたりはしたものの、大きなものが倒れたりする事もなく俺自身は何の怪我も負わなかったし、一階の居間にいた祖父母も無事だった。一階も二階も、棚や箪笥や机、テーブルなどが倒れる事もなく、地震がひとしきり収まったの後に飛び散ったガラス片を拾い集めてから掃除機をかければ、後片付けも殆ど住んでしまった。また、自分の周りの人たちの無事の確認も比較的スムーズに出来た。
運が良かったのだと思う。日曜は天神に用事があり、地震が起きなければその30分後くらいには準備をして家を出るところだった。家を出て、たとえば電車に乗っている間や天神を歩いている間に地震が起きればどうなっていたかを考えると、ちょっとぞっとしない。友人や知人の中にも、座っている位置がほんの少しずれていたら……と言う人は少なくなかった。二日経った今日も余震は止まず、16時くらいにかなり強く長い揺れがあった。テレビや新聞を見れば、最も被害が大きかった地域の酷い有様が流れ続けている。昨日今日と天神に出て専門学校に行ったが、青いビニルシートが大きなビル全体に掛けられた異様な眺め、痛々しく割れたビルの窓ガラス、「CD売り場は復旧作業中により立ち入り禁止」の張り紙、道路には後片付けの跡、商店街に横付けされた救急車、とそこかしこに地震の名残は生々しく残っていた。
だが、そういった諸々の爪あとを見ても今一つ災害に遭ったと言う実感が沸かないと言うのはどうした事だろうか。自分が大した被害を被らなかったから、と言うだけでは説明しきれないほど、今自分には危機意識のようなものが薄いし(一応、それなりの用心はしているが、それなり以上でも以下でもない)被災の痕が何やら遠いもののように思えた。テレビで見るのも自分の目で見るのも大差なく、風景がよそよそしい。と言うか、ちょっと自分でも戸惑うほど、自分の方がよそよそしい。
これは、いかんなあ。昨日のあまりに太平楽な更新は何だとか危機感がないとかそういう問題だけではなく、もっと根本的なところで致命的にまずい気がする。何がどうなのだ、と言うのは上手くは言えないが、よくない。


少しでも良いから義捐金を送ろう、と思った。動機が少々不純だが、金そのものは単なる量で浄不浄はないわけだし。被害に遭った方、心よりお悔やみ申し上げます。と言うのがどういうわけか自然と口を付いて出て来ない按配なので、形にしてみた方が良いだろう。