レンジレンジ

文章の背景、と言うか書かれている事柄の背後の風景や空気が見える文章と、そうでない文章がある。情景をこれと言って書き込まず、ごく少ない単語でつくられたシンプルなものなのに、何故かその後ろにある街の風景が何となく想像出来る文章があり、書かれてある事柄に書き手も読み手も注意が集中して、それ以外の部分にはあまり意識が広がって行かない文章がある。それらの差は、つまるところ文章を書く際に見据える(あるいは、肌で感じる)風景の広さの違いだし、既にある風景の中心として自分を置くのか、それとも自分を基点に視界を展開してゆくのか、の違いでもあるのだと思う。
まさに前者の典型のような視界の広い語り口を持つ文章を書く友人がいるんだけれども、そんな文章を読んだ時には自分の書き口について考える事が多い。
聴いたCDの感想を書く際にはある程度対象の音楽そのものに視点を集中させて書こうと努めているんだけれども、別にそうでないごくごく普通の日記を書いている時でも、どうにも書き方が近視眼的で奥行きに欠けていて、書いてある事以外の事は感じ取りにくい文章になっている気がする。たまたまうちに検索したりアンテナ辿ったりで行き着いた人が、街を歩いている時に見聞きした物事に関する自分の文章を見て、背後にある風景を想像出来るかどうかと言うと、きっと、あまり想像出来ないのではないかと思う。
だからどうだ、と言うわけではない。視界の広い文章、そうでない文章、それぞれに一長一短あるのだろうし、自分の書き方(と言うか、より正確に言うなら、ものの見方)は特段嫌いでないし、また嫌いだからと言ってそうそう変えられるものでもない。ただ、時々、そういう見晴らしの良い文章を書ける人は羨ましいなあと思う、と言う話。