熱量

音楽、演劇、文学、絵画、彫塑、建築、映画。まあ何にせよ、「作品を、作者の一個人格の延長線上のものとみなすか、或いは同一視しよう」とする見方と「作品と作者をなるべく切り離して考えよう。ある一作品に対する解釈は、その作品の内のみで完結させよう」とする見方があると思う。前者と後者の違いは、作者がどのような状況で何を考えて作品を作ったのかを読み取り、そして別の作品とこの作品との間にある差異や変遷から作者の人格・思想・人生を浮かび上がらせようとする試み……要するに作者と作品とを繋ぐ「物語」の存在を重視するかしないかの差でもあるし、「受け手としての自分」をどの程度意識するかどうかの違いだとも言える(当然、受け手の解釈の幅が広い分前者の方が自意識は強い。)。
たまにCDの感想を書いたりしているので察して貰えると思うんだけれども、俺の考え方はどちらかと言えば後者に近い。ヘヴィメタルには完成度・機能性をひたすら追及するサウンド至上主義的なところがあって、あまり作り手の人格なり思想なりには前から興味が沸かなかったし(詳しくは知らないのでただの想像だが、こういう機能主義的な考え方はクラブミュージック辺りにもあるんではないだろうか)、一応俺の領分であるところの哲学・倫理学も、その性質上「何故、このテキストが書かれるかに至ったか」に対する興味は「このテキストがどんな意味・効果をもたらすか」への興味と比べると圧倒的に低い。結果、作った人と作られたものをあまり結び付けないままに読んだり聴いたりする、と言う習慣が出来ている。
ただ、そういう受け取り方・考え方と言うのは、どうも対象の作品に対して愛着が沸きにくく、また聴き方や読み方に節操が無い気がする。自分には真似出来ないような思い入れの強さでもって作品やアーティストや作家を解釈する人が書く文章ってのには、何かしら一本筋が通ったところ……有意義な狭量さとでも言うべきものがあると思うが、そんな文章を読むと「自分は何だかとても重要なところを落としているのではないか」とか「実際のところ自分はさほど音楽を聴くのが好きではないのではないか」などと思ったりする事がある。
無論、聴き方や受け取り方は十人十色、ってのは頭では解っている。けれども、たまに今一つ熱量の足りない自分の姿勢そのものに対して何とはなしに寂しさを感じる事もある、と言う話。


いつもの事だが、ちょっとでも真面目な話をしようとすると全然纏まってくれない。文章力とセンスと金と人脈と人間的魅力が欲しいです。それから、普段マトモな事を話さないので、こういう事を書くと妙に気恥ずかしい。