居合わせる、の意

大学に受かって実家の大分を離れて以来だから、もう六年ほど抜いていない(ここで不適切な連想をした方は、最後の段落まで一気に読み飛ばして貰って構わない)計算だが、小学六年から高校を卒業するまで俺は近所の小さな道場で居合道を習っていた。
鞘の内で刀を走らせて斬撃の速さ鋭さを高める。一撃必殺。先の先。捨て身。いわゆる居合抜き、抜刀術に対する一般的なイメージはこのような感じ、様々なフィクションの影響もあって華々しいものだと思う。なので、「居合をやっている」と言うと、「緋村剣心とか橘右京とかみたいな事が出来るの?」などと聞かれて答えに詰まる事が多かった。けれども、実際は居合道の型には「不意に現れた敵に対して刀を抜いていない状態で対処するための刀法」を表すものが圧倒的に多い。そして、居合の稽古は剣道のように敵手と相対して勝敗を決めるものではなく、ただひたすらに型を繰り返す事に始まってただひたすらに型を繰り返し、自身を律する強い心を錬る事に終わる。華々しさとは真逆だった。
その道場は剣道を教える傍ら居合を教えているところだったので、六つから中学卒業くらいまでは剣道も一緒にやっていたが、興味は段々と剣道から居合の方に向いて行った。居合の型は、たとえば、

正座で向かい合って話していた相手が唐突に殺気の篭った目を向け、刀に手を掛けようとする。今や敵となったその相手の動きを察し、右脚を踏み出しながら、抜き打ち様に両目に斬り付けて機先を制する。眼を斬られ怯んだ相手に更にもう一歩踏み込んで大上段に斬って捨てる。切り伏せた相手の命を完全に絶った事を確認し、周囲に更なる敵が現れないか警戒しつつ(残心)、血振り、納刀。

と言ったようなもので、手の位置や膝の角度や目付けや足運び等など一つ一つの動作に細かい決まり事がある。一度抜いては、自分の動きを確かめてその細かい決まり事に反する部分を把握して、それを修正しながらもう一度抜く。それを延々と繰り返して、少しずつ少しずつ所作の精度を上げてゆく。傍目には何とも地味でぱっとしない光景に映ると思う。
だが、それが俺には楽しかった。たった小指一本と言えども自分の身体が自分の思い通りには動いてくれない事を痛感し、そしてそれを少しずつ克服してゆく事の楽しさ。僅かなりとも、自分自身を掌握する「自律」を感じた時の解放感。剣道の動中静と両輪をなす静中動。自分の呼吸と周囲の空気の振動が同調するのを感じる、研ぎ澄まされた感覚(もっとも、そんな感覚を得た事は数えるほどしか無かったが)。そう言った事を感じ取るのが好きだった。だから、不精はその頃から筋金入りの不精だった俺が週に一度飽きもせず道場に通い続けていたのだと思う。それに、居合と剣道の先生は本当に尊敬出来る人、大好きな先生だったと言うのも大きい。前にどこかで書いたが、豪快かつ洒脱で厳しくも優しい、絵に描いたような「老師匠」と言った居佇まいの人だった。添手突きと言う名の型がどうしても上手く行かず、悔しくて涙が勝手に出た時に、先生が「そこで悔し涙が出るのは爽やかな気持ちを持っている事、もっともっと上達出来る事の印だ」と言ってくれた事をよく覚えている。
昨日、雑談していたらたまたま居合をやっていたと言う話になって、話している内にまた居合がやりたくなった。道着に袖を通し袴を穿き、刃は付いていないとは言え刺しても叩いても人が殺せる凶器であるところの居合刀(四段を取った辺りから真剣を使うようになるものだが、俺は三段までしか持っていない)を腰に差せば、体温が下がり肌が粟立つような緊張感が全身に回ってゆく。道場の静かさ、板張りの床の冷たさ。その感覚を懐かしく、恋しく思う。今度実家に帰ったら、刀と道着と道具一揃え、こっちに持って来ようか。
なお、ごく個人的な意見だが、巫女さんの朱袴よりも剣道着の袴の方がずっと萌え対象として良いと思う。デザインからして少々のっぺりしたところのある朱袴より道着袴の方が洗練されてすっきりしているし、朱よりも白ないし紺の方がより清廉で純潔感があるのも良い。何より、もうすっかり消費され尽くした感があり、萌え対象として陳腐になってしまっているように思える朱袴に対して、道着袴はまだまだ注目されていない分野であるので、剣道・弓道合気道居合道・長刀等の袴について思いを馳せ、想像を膨らませる事には新雪をおろし立ての靴で踏み締め歩くような心地良さがあると思う。これからは朱袴萌えよりも道着袴萌えですよ。どちらかと言えばこちらが本題。