映画

アカルイミライ」を観た。映画の語法に沿った読み方をほとんど知らないもんで描かれているものが読み取れているか全然自信がないが、お勧め頂いたものでもある事だし感想を書いてみる。ただ、筋立てを感想に混ぜられなかったので、申し訳ないんだけれども映画を観ていない方には何を書いているか解らないかも知れない(映画を観ていても何を書いているか解らないかも知れない)。


この映画、会話が全く噛み合っていないシーンが頻繁に出て来る。と言うか、大部分の会話が噛み合っていない。会話の不成立は「雄二(オダギリジョー)と守(浅野忠信)/工場の上司」「有田(藤竜也)/雄二」「有田/守の弟」「雄二/高校生」のように世代が異なる者同士の会話の中に主に現れていて、その原因は世代間の断絶であるように描かれているんだけども、どうもそれが納得行かなかった。会話が噛み合ってない原因は世代間の断絶ではなく、礼節が守られていない事にあるように思えてならなかったので。
有田以外の殆どの登場人物は礼儀を知らない。工場の上司は守と雄二に対して礼を払わなかったため守に殺されたと言ってよく、その礼を弁えない態度は後半で出て来る高校生たちの傍若無人な態度にそのまま当てはまる。だから、高校生たちの未来を想像した時、そこには工場の上司(と、同じく礼儀知らずな彼の妻)の死体が浮かび上がってくるし、ラストシーンではThe Back Hornの「未来」をバックに彼らが街を行進する様が描かれるんだけども、彼ら高校生の事が明るい未来を託されるべき存在だとはどうしても思えなかった。そこで流れる「未来」すらどこか空疎に、或いは恐ろしく冷笑的なユーモアに聴こえる。あの高校生の中には雄二のように成長してゆく人間もひょっとしたらいるかも知れないが、そうなれなかった残りの大部分は頭をカチ割られて死ぬのではないだろうか。そう思ってしまうほど、劇中に満ちた非礼・無礼とそれらが呼ぶギスギスした空気は観ていて辛く、暗澹とした気分にさせられた。
クラゲが川を下って海へと進むシーンで、雄二は彼らが「東京を脱出する」と表現したが、あれは脱出しているのではなくて東京を見限っているのだと思う。クラゲに見捨てられる街と、そこに住む礼儀知らずの群れ。礼を知るがために、その中であがく有田。成長したがために、いずれは有田のように悩み苦しむのであろう雄二。そんな構図が見える。その構図自体は明るい未来だとは言い難い。むしろとても暗い。だが、タイトルの「アカルイミライ」とは道を進んだ先に見える希望的な何かを指し示しているのではなく、前に進もうとする意志(守の「行け」と言うサイン)そのものを表現しているのだと思う。
観た直後は気分的にかなりキツかったと言うか憂鬱になったが、しばらく時間を置いて振り返ってみると雄二と有田の別れのシーンなどが不思議な余韻となって残っているのに気付いた。案外悪くない、と言うような、そういう感じ。ただ、最後のシーンがチェ・ゲバラのTシャツを着た高校生の行進であるのにはやはり強い違和感を感じる。あの高校生たちと未来は、自分の中で結びついて来なかった。



大した量でもなく、たいへんに的外れっぽいこの文章書くだけで映画観るのと同じくらい時間使った。慣れない事はやっぱりするもんじゃないな……あと、守と雄二は確かに同性愛っぽい雰囲気あったな。最初はてっきり二人が共同生活してるのかと思った。クールで頼れる(守は実際にはそういうキャラでもなかったけども)兄貴役と不安定で依存しがちな弟役、ってボーイズラブの典型的パターンだし。しかし、うだつが上がらない工場労働者などと言いつつも男前二人を主役格に据えてる事よりも、話の筋とかはある意味非常に泥臭くもあれば地味なのに映像や道具仕立てがやたらスタイリッシュな事の方が妙だなと思いました。映画ってのはそういうもんなんだろうか。