僕にこの手を汚せと言うのか

表現活動を排泄行動と言い表す人が、たまに居る。
そういう人にとって、何かを言葉なり音楽なり絵画や彫刻なりで表現するというのは、自分の内に湧き上がる情動が許容量をオーバーして自分がパンクしてしまう事を防ぐ緊急回避的な意味合いがあるんだそうな。その物言いを真に受けるなら、確かに表現と排泄の意味と構造は似ている。違うのは、表現活動によって産み落とされた何か、排泄物を望んで享受する人たちが居るという事くらい。
そこまでの表現に対する衝動と言うのがどういうものなのだろう。そして、強迫観念の域にまで達するその衝動を達成し、解消した時の快感はどれほどのものだろう。大して理由も無く文章を趣味レベルで書き殴っている身としては興味はある。一度、そういう衝動に襲われてみたいとも思う。
夕食を食べながら、そんな事を考えていた。
通常の排泄行動にもそれを享受する相手が居るケースはあり得ると言うか明確にあるが、それはここでは問題にしないでおきたい。
今日の夕飯はポークカレーだった。